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ボランティアって?

日本人は新しいもの好きの、好奇心旺盛な国民だ、と管理人は思っている。だから外来語もすんなり日本語になっていく。より珍しい、新しい言葉が大好きなので、牛乳がたくさん入ったコーヒーは、ある時カフェオレ(これはフランス語)になり、それがいつの間にかカフェラテ(こっちはイタリア語ね)になるなんていう奇妙な現象も起こるのだ。ものは一緒なんだからオレだってラテだっていいだろうが! と管理人などは思うのだが、いつの間にかドトールのメニューまでオレじゃなくてラテに変わっている。

出てくるもんは、一緒じゃねぇ~かよ!

まっ、それはいいのだが、目新しい外来語が好きなのはいいのだが、カタカナになったとたんにほんらいの言葉と意味が変わってしまうことに管理人などはとまどいを覚えることがある。たとえば、リストラといったら日本語では首切り、解雇などの意味に使われているが、ほんらいの語源である英語のrestructingは改革、再構築、再編であって、人員削減は会社のrestructingの一環として行われる手段のひとつであって、リストラ=首切りというのはとても妙な解釈なのだ。

で、そういうカタカナ一人歩き語というのは意外に多い気がするのだ。とくに今回の広島の一件を眺めていて、ボランティアという言葉は、もとの英語のvolunteerとはずいぶんちがうものなのかもとつくづく思うようになった。

volunteerというのはほんらい、自発的に何かをするという意味の動詞でよく使われる英語である。そこから派生して現在の奉仕活動という意味の名詞が生まれたのだが、管理人にとっては、日本語のボランティアと英語のvolunteerって何となく意味が変わっているような気がしてならないのだ。

日本語のボランティアにはとても仰々しい響きがある。心優しい、天使のような人たちがやる美しき奉仕活動みたいなニュアンスがあって管理人のようの俗人にはちょっとばかし痒すぎる。ついでにいえば時間的にも経済的にも余裕がある人がやるものだといったような印象もあって、これまた管理人のように日々の生活に追われる貧乏人には縁のない世界という感じがしてならない。

じっさい日本人の多くは「ボランティアなんて偉いはね、でもわたしはそんな余裕がないからできないわ」と思っているにちがいない。

だがね、ほんらいvolunteerというのは、余裕があるなしに関わらず誰もがふつうにやることなのだよ。自分ができる範囲で、できることを無償でやる、これがほんらいvolunteerという言葉が持つ意味なのだ。だからアメリカなどではvolunteerをしたことがないという人を見つけるほうが難しい。それほどすべての人間が子どものころから生活の一部としてふつうにやっていることなのだ。

だからvolunteerがいなくなったら、おそらく現代のアメリカの生活は成り立たなくなる。それほどvolunteerの力は大きいのだ。

以前、ボランティアは「やりたいことをやることだ」と言い切る人に会ったことがあるが、もしそれが日本のボランティアの実態だとしたら、ボランティアとvolunteerはやはり別物だといわざるを得ない。「やりたいことをやる」のは単なる趣味であって「やるべきことを、やれる範囲でやる」のがほんらいのvolunteerだと管理人は思うのだ。

だから、ボランティアに命をかけている人とか、ボランティアが生き甲斐という人の話を聞くと、頭に大きな疑問符が浮かんでしまう。ましてや一生懸命ボランティア活動をしているのに、非難されたと泣きわめく人を見ると、呆れてものも言えなくなる。

日本人のボランティアの定義って、やりたいことをやって、なおかつ褒められたいと思っている人がやる、一種の趣味なんですかね? だとしたら、それはほんらいのvolunteerとはまったく別物だと管理人は思うのがね。

たとえば道で、目の不自由な人が道に迷っているのを見つけたとしよう。行く先の住所が見つからなくて、困っていたら、あなたならどうしますか? もし時間の余裕があって助けてあげられるのなら、一緒にその住所を探してあげたりしませんか?

たとえば街で、小さな子どもが自動販売機に手が届かずに困っていたら、代わりに買ってやるくらいは誰だってしませんか?

駅で、日本語が読めない外国人がどこまで切符を買っていいか悩んでいたら、教えてあげるくらいはしませんか?

管理人はそれがvolunteerの精神だと思っている。他者に対するちょっとした思いやりや気づかいから何かを自発的にやることがvolunteerの精神なのだ。そういうとき、周りで誰かが見ていて、すばらしい! なんて優しい人なんだ! って褒められることを期待するだろうか? 誰も見ていなければやらないのかな? だとしたらやっぱりちょっと変じゃないって管理人などは思うのだ。

広島の現場には、現在もたくさんの人がお手伝いに入っている。数が減ったとはいえ、まだ100頭前後のが新しい飼い主が迎えに来る日を待っているからだ。嫌な噂も聞くだろうし、もしかすると不愉快な目に遭うこともあるのかもしれない。だが、それでも一定数の人は現場でいまも地道なvolunteerを続けている。そういう方たちのブログを読むと、支援物資もある一定数は全国から届けられているようだし、いろいろ言う人は多いだろうが、それでもたちを見捨てずにいる人がまだいるという事実を見て、日本人も捨てたもんじゃないな、と管理人などは思うのだ。

上の話に戻るのだが、たとえば目の不自由な人の住所探しを手伝おうとして見つからなかったとき、たとえば警察署に案内するとか、ちゃんと家に帰れる場所まで送り届けるとか、他に道案内ができそうな人にバトンタッチするとか、ともかくいったん助けると決めたのなら、ある程度最後まで責任を持つのが筋だと管理人は思うのだ。

AAがどうのと騒いでいる人たちの言い分はともかく、やっていることは、上の例で、あちらこちら歩きまわったあげく、こっちも時間がないから、はい、さよならと、目の不自由な人をまったく見知らぬ土地に放置して帰るのと一緒だと思うのだ。最初の場所にいたならば、その人は自力で家に帰れたかもしれない。たとえそれが善意であったとしても、やりかけたことを途中で止めるのは、ある意味、最初から助けないよりも、もっと状況を悪くすることになるのだよ。

それが日本のボランティアの実態ならば、最初からそんなことはしないほうがまだマシだと思うのは管理人だけではないだろう。

まっ、他人のことはどうだっていいんだがね。ともかく、だれがなんと言おうと管理人は、きちんと最後を見届けるまで、たちのためのvolunteerを続けていくし。だってさ、は決して人間を裏切らないのに、そのをもう一度裏切ることになるような事態は、やっぱり避けたいと思うしね。
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テーマ : 【緊急」広島ドッグパークレスキュー450頭
ジャンル : ペット

Comment

ボランティア活動が人生の生きがいになっていて、更にその活動を認めてもらいたい、とか言う場合はもう「ボランティア」と表現してはいけない気がするなぁ。全くの別物だよね。
管理人さんが書かれたように、困っている人を見かけることはよくあるよね。で、実際に手を貸しても「あぁ、自分は今ボランティアしてるんだぁ」なんて感慨に浸らないじゃない。ごく自然に行動に移す。それが「volunteer」の感覚ではないかと。

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日本ではボランティアっていうとちょっと仰々しくなっちゃうんだね。可哀想な○○を助けてます!ってちょっと声高な感じするし。

フツーの人がフツーにやるのがVolunteer、でも日本のボランティアは……学校の必修科目!?

★★鍵コメさま江★★
鍵コメ……じゃなくても良かったような気が(^_^;)

まっ、いいか。気が弱いんだからしかたないね(^o^)

実はさ、昨日のお昼にまさに「ボランティア」について知り合いと喧々諤々したのであった。。。「活動家だよね」と言ったら、
「その言い方はどういうことかしら? 活動家というと、左翼とか右翼とか過激な事をする人のイメージがあるから、冗談でも言わないでもらいたい」とそれはきつーい口調で説教されました。ま、そういう意味も含んで「活動家」と表現したんだけどさ。
「あなただってしおん君を引き取ったじゃない。それはボランティアではないの?」と言われたときには返す言葉がなかったよ。。。
人生いろいろ、考え方いろいろですな。

ある意味、ものすごく過激なボランティアもいると思ふ(-。-)

その心は……信念がありすぎて周りが見えなくなっている?
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