相対評価と絶対評価
2007 / 02 / 25 ( Sun ) 人間の「ゆとり教育」の目的のひとつは、子どもの個性を尊重してそれぞれの良いところを伸ばしていくことにあるのだという。それはすばらしい方針だが、個性を個性として見る社会でないと立派なお題目も単なる建前に終わってしまう。「ゆとり教育」にどっぷりつかった息子を持つ友人がこんな風に嘆いていた。
「個性を伸ばして、良いところを褒めてやれって言っても、じっさい絵がものすごく巧いとか、スポーツがめちゃくちゃできる子なんて一握りなんだから!」 絵が巧く描けるとか、スポーツに長けているというのは、個性じゃなくて一芸に秀でているというのではないかい? 個性というのは誰でも持っているもので、それぞれの行いや性格や態度やそういうなかでここは良い点だと思うところを褒めて伸ばしてやればいいのではないかえ? それは、他人と比べたら1番ではないかもしれないが、それでもこの子のなかで、こういう良いところは今後も続けて欲しいと思うことを、褒めてやればいいと思うのだよ。 どうしようもない悪戯ばかりする腕白坊主は、元気のあるよい子だと言えばいいのだ。人見知りのはげしい内気な子は、おとなしくて慎重なよい子という言い方ができるだろう。そうやって良い点を褒めた上で、改善点を少しずつ直していけばいいのだと思う。それは犬の「陽性強化」と一緒だし、叱られてばかりいておまえはダメだと言われ続けるよりは、犬にとっても子どもにとってもずっと良い方法だと思うのだ。 うちの犬たちは、スーパードッグからはほど遠いごくごく平凡なふつうの犬たちだ。世間一般の基準と照らし合わせてもたいしたことはできない駄犬である。だが、他人から見るとやる気のないカイのノタノタ走りも、ふだんより一生懸命走っていると思うから、管理人はたっぷり褒めてやるのだ。2年半も飼っていてまだオスワリくらいしかまともにできない姫でも、うちに来たころは人前で座ることもできなかったことを思うと、恐ろしいばかりの進化に、他人さまに白い目で見られながらも愛犬自慢をして回るのだ。 個性というのは相対評価ではなくて、あくまでも絶対評価だ。他者と比べてそれを基準に良し悪しを判断すべきものではないはずだ。だから他者との比較でしか物事を評価できない社会には、個性を重視する教育は向かないと管理人は思うのだ。つまり、東大合格、CDX合格などの世間の評価基準をクリアしているかどうかが気になって仕方がない人たちは、上っ面だけで「ゆとり教育」だ「陽性強化」だと立派なお題目を唱えても、けっきょく妙な結果しか残せない。 それに「ゆとり教育」も「陽性強化」もマニュアル1冊読んだだけでできると思ったら大まちがい。なぜなら子どもでも犬でも、ひとつの命を育てるってことは大きな責任を伴うものだからだ。そのとてつもない重責を果たすためのノウハウが本1冊に書いてあると思うほうがどうかしてる。字面だけでご立派な教育方針を語ることはできても、実践できるかどうかはまた別問題だ。ましてや短い期間で結果を出そうと思うことじたい、何かがちがうという気がする。 うちは「陽性強化」で犬を育ててきて正解だった、と心の底から思えたのは、ディーが虹の橋を渡っていったあとだった。管理人のなかに、褒められて得意げに笑っているディーの笑顔がたくさんの思い出として残っているからだ。 教育なんて、けっきょくそういうものなのかもしれない。そのときは本人も必死で、試行錯誤を繰りかえしながら、何が何だかわからぬままにただ時間が過ぎていく。それが正しかったのかまちがっていたのかを、ほんとうにきちんと判断できるのは、たぶんずっとあとになってからのことなのだと管理人は思っている。 |
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